23/2/28掲載

人が「伝える」ランドスケープ資産

no.4-5「水茎内湖干拓地に残る湖岸跡」

内湖の干拓という地歴を知らなければ,圃場の区画と無関係な崖線が唐突に現れる理由はわからないであろう。この場所の明治期の様子がわかる国土地理院の旧版地図から内湖の湖岸線を把握し,現在の地図に重ね合わせたところ,この崖線と見事に一致した。つまり,この崖線は,かつて存在した内湖の湖底と湖面とに思いを馳せることのできる縁(よすが)と言える。

村上 修一 / 滋賀県立大学

干拓地の広大な圃場の中を高さ約2mの崖線がうねるように縦断する。土砂の堆積等によって琵琶湖から隔てられた,水深が浅く底の平らな水域のことを内湖と呼ぶが,琵琶湖の沿岸では,戦中戦後の食糧増産と耕地面積拡大の政策によって,1943年から1971年までの間に15の内湖に対して干拓事業が行われた。

かつてここには内湖の水面が広がっていたことを伝えてくれる景観である。

村上修一,轟慎一(2018)内湖がかつて存在した場所の物理的状況-琵琶湖沿岸地域を事例として-:都市計画報告集No.16:P.341-346